日本キリスト教団大森めぐみ教会 〒146-0082東京都大田区池上1-19-35 /Fax03-3754-9903
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メッセージ
 イースター説教 「嘆きが踊りに変わる時」   牧師 関川泰寛 
詩編30篇9から13節 マルコによる福音書16章1から8節

 本日読んだ詩編の言葉に、「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました」と書かれています。この詩編の言葉は、主イエス・キリストの復活の出来事によって実現したと言ってもよいでしょう。
 イースターの日、わたしの嘆きは踊りに変えられます。わたしたちは、自分がまとう衣を引き裂いて悲嘆にくれることをもはや続ける必要はありません。粗布を脱いで、喜びを帯として、わたしたちは立ち上がることができます。
 なぜなら、エルサレム郊外のゴルゴダで処刑されたイエスという男の死は、神の御子の死であったことが明らかになったからです。復活によって、十字架で苦難と死を引き受けてくださったナザレ人は、わたしたちの罪を負って、わたしたちに代わって、神の御怒りを受け止め、わたしたちの罪の赦しと救いを実現させてくださった方であったことを知るからです。イースタ説教
 
 嘆きが踊りに変わるとは、何と慰めと希望に満ちた言葉でしょうか。
 詩編30編7節は次のように語ります。「平穏なときには、申しました。『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と」。確かにそうです。わたしたちも、自分の人生が平穏無事に進んでいるときは、わたしの存在もわたしの信仰も揺らぐことはないと考えます。しかし、ひとたび、わたしたちの人生に嵐が襲うと、主イエスと同じ小舟に乗っていた主の弟子たちのように、「先生、わたしたちがおぼれてしまっても構わないのですか」と叫び出し、恐怖と不安にとりつかれてしまいます。
 わたしたちが深い不安や恐れに襲われるのは、たいていの場合、自分が何かを失うのではないかという思いにとらわれるからではないでしょうか。病になるとそれまでの健康な生活を失います。行きたい時に行き、眠りたいと時に眠る生活も失われます。家族や友人と別れねばなりません。住み慣れた家を離れて入院生活を余儀なくされます。
 さらに病が深刻になると、わたしたちの肉体の機能は奪われて行きます。それまで何の心配もなくできていたことができなくなります。肉体の能力が奪われていくことに深い不安と恐れを感じます。病だけではなく、人間の老いや死の予感も、わたしたちを不安の闇の中に突き落とします。
 わたしたちは、人生の最後まで、自分がこれまで与えられて来たもの、自分が与えられて、我が手に握りしめてきたものを離したくありません。最後の最後まで、これまで保ってきたものを保持し、自由と尊厳をもって病と戦い、死に臨みたいと願います。これは、人間である以上、当然のことでしょう。しかし、この当然の思いが、多くの場合、わたしたちを一層苦しめます。
 わたしたちが死を予感し、苦難に生きる時、握りしめる生き方から、一度すべてを手放して、創造主なる神に委ねる生き方に転換する必要があると思います。しかし、これはもちろん難しいことです。大切にしてきたものを手放すことは、断腸の思いです。それはほとんど不可能にすら見えます。しかし、十字架におかかりになった主イエスの前に立つとき、わたしたちにも、そのような生き方が可能となります。なぜなら、主イエスは、神の御子としての尊厳も力もすべて手放して、己を僕の姿としてくださって、わたしたちの救いを成し遂げてくださったからです。
 イースターの朝、安息日が明けると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、主イエスの御体に油を塗るために、香料を買って、墓へ出向きました。週の初めの日、ごく朝早くです。女性たちは、「誰が墓の入口から大きな石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。せっかく、墓に行っても、大きな石を動かせないのであれば、香料を買って塗油する意味もなくなってしまいます。ところが、目を挙げてみると、石はすでにわきに転がしてありました。すぐに墓の中に女性たちは入ります。すると、白い長い衣を着た若者が、右手に座っていたのです。婦人たちはひどく驚きました。若者は言います。「おどろくことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」。
 婦人たちが見たのは、空っぽの墓、空虚な墓でした。目の前の空虚な墓。それは、弟子たち、生前の主イエスを知っている人々には、驚きでした。さらに深い嘆きを与えるもの。愛する者の死の知らせを聞いて、葬りのために墓に来ると、主のみ体がないのです。目の前にあるのは、空っぽの墓、空虚な墓です。
 しかし、空虚な墓のみがそこにある出来事は、わたしたちに新しい生き方を教えるものです。それは、自分たちがこれまで知り、握りしめた主イエスの手とは異なる神の御手が、差し出されていることを示すからです。

 昔、あるキリスト者の手記を読んだことがあります。愛する息子を若くして失った女性の手記です。葬儀が終わり、自分の家に戻ってきた時のことです。亡くなった自分の息子の部屋に入てみると、息子はもうそこにはいません。息子の机があり、好きだった本やレコードが整然と並べられ、壁には洋服がいつも通り、かかっているという風景です。しかし、その部屋のあるじはもういないのです。空虚な部屋、空っぽの部屋だけがそこにあります。
 その女性は、しばらくその部屋を眺めていましたが、やがて、キリストの復活の朝もこのような経験でなかったかと思い始めます。空虚な部屋を、かえって、その背後に、その向こうに、愛する息子の記憶をよみがえらせ、むしろ確実な存在への信頼を呼び覚ますのです。

 かつて内村鑑三は、自分の愛する娘ルツ子さんが18歳で急逝したとき、「再び充たされることがない空虚」を経験していると手紙で親しい人に書き送っています。「人生悲痛の極み」であるとも述べています。内村鑑三は、娘の死を契機にして、復活と再臨信仰を深めていったと言われています。内村は、愛する娘の死について、深く抑えられた、簡素な言葉で手紙や文章で伝えているにすぎません。しかし、その事は、かれの内心の無限の悲痛がかえって深く抑えられていたからでありましょう。
 森有正は、アテネ文庫の『内村鑑三』(昭和28年刊)という小さな書物の中で、娘の死という耐えがたい経験を通して、内村鑑三が得たものは、人間の死を試練であるとか、艱難であるとか、いわば外側から見た経験にとどまるのではなく、むしろ内側から見るようになったことであるという趣旨のことを述べています。
 死を内側から見るとは、死を第三者として見るではなく、自分自身の事柄として見るということです。娘ルツ子の死は、内村鑑三自身の痛みであり苦しみであり、死なのです。愛する者の死は、自分自身の死を感じるほどに、体を切り刻まれるほどの苦悩、悲しみ、空しさ、そういう感情が内側から湧いてきて、とめどなく、自分を苛むということです。しかし、死をこのように内側から見る時に、わたしたちは、死の向こう側に、神の恩恵があり、勝利があり、感謝があることを確信するようになります。
 私たちにとって、家族の死、自分の子どもの死が、言葉では表現できないほどつらく悲しく、一生涯自分の魂に刻みつけられるのは、死の恐れと虚無が、死んだ家族の事柄のみならず、私自身の事柄だからです。娘の死は、わたしの死であり、わたしの虚無であり、わたしの悲痛にほかなりません。愛する者の死を自分が代わって経験することはできません。しかし、自分が、愛する者の内側にいるときに、愛する者の死の苦しみを同じように感じ、刺し貫かれるような痛みを感じるのです。
 森有正は、先の書物の中で、このような経験が内村鑑三に起こり、このことがかえって、死を恵みや感謝、勝利、希望へと到らせた内村の心のありようを説明すると分析しています。事実、内村は、娘の死の出来事を契機として、人間の救済の問題、死に対する主イエス・キリストの勝利の問題に関心を深め、終末の際に起こる再臨の信仰を深めていきます。 

 主イエス・キリストの復活の出来事もまた、空虚な墓を伴いました。しかし、そこにあるのは、ただ空っぽの墓ではなくて、死を超えたところにあるキリストの命です。しかも、愛する者の記憶や痕跡ではなくて、空虚な墓を凌駕する圧倒的な現実です。復活の朝には、キリストの新しい生命が胎動します。わたしたちの死すべき体の現実を越えたところにある、新しい復活の体が立ち上がります。そこにわたしたちが結ばれるべき命があります。復活とは、わたしたちの経験を超えたものゆえに、空虚な墓のみが示すことのできるものです。しかし、復活の墓の空虚さは、人間の墓とは違って、その向こうに確実で光に満ちた命が指し示されています。
 キリストの教会は、主イエスの復活の朝に新しい命と力をいただいて、胎動し始める共同体です。わたしたちは、神から、空虚な墓の前に呼び出され、その向こう側に復活の主イエス・キリストのお姿を、はっきりと示されています。この方に招かれ、呼びかけられています。この方の差し出す御手をしっかりと握るようにと、差し出された御手を握りしめるものです。
 古代のキリスト者、エイレナイオスという教父は、神は二つの御手を持っておられると語りました。二つの御手とは、キリストと聖霊のことです。神は天におられ、遠く隔たっているように見えますが、二つの手を伸ばしてくださって、わたしたちは、この手に結ばれています。わたしたちは、神の御手をしっかりと握りしめます。神の手を握りしめるとき、わたしたちはそれまで大切だと思ってきたものを手放しても良いのです。
 キリストと結ばれた者は、恐れに支配されることなく、さらにその恐怖や不安に逃げ隠れることもなく、死や苦難と向き合うことができます。
 わたしたちの教会の一人の兄弟が病床で洗礼を受けました。病床を訪問するとき、牧師は、いつも病の床にある方の手をしっかりと握り、祈りをささげます。病床の兄弟は、家族に囲まれて、三位一体の神への信仰の告白をして、洗礼を受け、最初の聖餐に与りました。兄弟が、キリストの御手を握りしめた瞬間です。兄弟は、その後、容態が安定し、ご自宅に戻りましたが、しばらくの療養の後、家族の見守る中、自宅で地上の生涯を終えられました。ご家族もまた、主のご計画の不思議さを実感しました。
 一人の兄弟の病床受洗、そして聖餐に与る喜びの経験を通して、わたしたちは、苦難と試練にあっても、復活の主は生きていて、そこに臨んでくださることを確信できるようになりました。神に向かって伸ばすわたしたちの手を、神は二つの御手で受け止めてくださいます。そして、不安や絶望が襲ってきても、主は共にいます安らぎの内にわたしたちを生かしてくださるのです。
 イースターおめでとうございます。心より、主の復活を祝いましょう。


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